2013年 12月 22日
日本のイスラム学の泰斗、井筒俊彦氏は著書『イスラーム文化』において、イスラム教を「商人のメンタリティを反映する宗教」だと述べ、ベドウィンとの関連を否定している。 イスラームは最初から砂漠的人間、すなわち砂漠の遊牧民の世界観や、存在感覚の所産ではなくて、商売人の宗教-商業取引における契約の重要性をはっきりと意識して、何よりも相互の信義、誠、絶対に嘘をつかない、約束したことは必ずこれを守って履行するということを、何にもまして重んじる商人の道義を反映した宗教だったのであります。(『イスラーム文化』 p.29) しかし、ヒッティの『アラブの歴史』を読むと、イスラム教はベドウィンの慣習を色濃く受け継いだ宗教なのだと思わざるをえない。 まず、井筒氏のように定住民(商人)と遊牧民(ベドウィン)に二分化することには違和感がある。両者は定期的に交流を持っていたし、旧約聖書でも両者が生業を相互に変えることは日常的に起きていた。また、倭寇がそうであったように、ベドウィンは商人と海賊の両面の姿をもっていた。 かつてベドウィーンだった一部の都市民は、古い遊牧民の痕跡をとどめているし、そのほか都市民化の途上にあるベドウィーンがいる。定住民の血液は、遊牧民の血統で絶えず更新されている。(上巻 p.79)
イスラムが神への「絶対帰依」を求めるのは、砂漠の過酷な自然の前でひたすら耐える忍耐、受動性を備えたベドウィンの特質を下地としているのではないか。また、イスラムが聖職者階級を否定し、神の前の平等を唱えたことも遊牧民であるベドウィンの個人主義・平等主義的な思考が背景にあるように思える。 イスラムの象徴でもある月は、砂漠の遊牧民であるベドウィンにとって天体信仰の対象だった。夜露が牧草を育むからだ。オアシスや石は無明時代(ジャーヒリーヤ)のベドウィンのみならず、セム民族の原始宗教の信仰の対象であり、それがザムザムの泉やカーバの黒石に繋がっている。マッカへの巡礼もまた、ジャーヒリーヤ時代のベドウィンが神聖な四ヶ月の間に行っていたものだ。 ムハンマドが否定したものは、井筒氏が述べる通りベドウィンの部族重視の価値観だったのであって、それ以外のベドウィンの慣習や特質は否定してないように思える。アッラー以外の、部族由来の神を排除するために、多神教は否定された。まぁ、ユダヤ教やキリスト教の影響は当然あるけれども。 唯一絶対神の前での平等を訴えることで、部族同士の抗争に明け暮れたジャーヒリーヤ時代に終止符を打つ。それこそがムハンマドが狙ったことなんじゃないかと思える。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ イスラムが未だに西欧/キリスト教世界に劣後している理由は政教分離、聖俗分離ができないからだろう。宗教が政治の上に来ては、他者への寛容性に欠け、謙虚に他者に学び、自己を変革していくことは難しい。 ヒッティが述べるように、イスラム世界は『コーラン』と『ハディース』の解釈学であるスコラ主義から脱することができていないように思う。字句に拘泥し、あるいは自己の内面的精神性を重視する傾向が強すぎるのではないだろうか。 アル=アシュアリとアル=ガッザーリの建設したスコラ主義の殻は、今日までイスラムを支えてきている。しかしキリスト教は、とくにプロテスタントの反抗の時代に煩瑣主義を破壊することに成功した。その時以来西洋と東洋とは袂を分かって、前者は進歩的となったのに、後者は停滞的にとどまっている。(『アラブの歴史』下巻 p.169) アラブの春以降のエジプトの状況や、イスラムへの回帰を強めるトルコの状況は、イスラム世界で聖俗を分離することの難しさを痛感させる。 ムハンマドが今の時代に生きていたら、聖俗一致を求めるだろうか。彼がウンマを率いて神が善しとする規範を示したのは、抗争に明け暮れて現世的な享楽を求めたジャーヒリーヤ時代のひとびとに幸福を与えたいがためだったからじゃないだろうか。
by guranobi
| 2013-12-22 00:33
| イスラム
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