2013年 12月 22日
バーナード・ルイス:『イスラム世界はなぜ没落したのか』 北川稔:『砂糖の世界史』 新井政美:『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』 山口直彦:『エジプト近現代史』 宮田律:『物語 イランの歴史』 池内氏が指摘するとおり、井筒氏の論考は個人的な関心に基づいた偏ったイスラム学であるように思える。井筒氏はイスラム法学や理性的哲学よりも神秘主義に重きをおくが故に、時として理解が難しく、あるいは論理の飛躍が感じられた。ただし、池内氏の批判を理解した上で読めば、もちろん十分に参考になる。 #
by guranobi
| 2013-12-22 02:23
| イスラム
2013年 12月 22日
日本のイスラム学の泰斗、井筒俊彦氏は著書『イスラーム文化』において、イスラム教を「商人のメンタリティを反映する宗教」だと述べ、ベドウィンとの関連を否定している。 イスラームは最初から砂漠的人間、すなわち砂漠の遊牧民の世界観や、存在感覚の所産ではなくて、商売人の宗教-商業取引における契約の重要性をはっきりと意識して、何よりも相互の信義、誠、絶対に嘘をつかない、約束したことは必ずこれを守って履行するということを、何にもまして重んじる商人の道義を反映した宗教だったのであります。(『イスラーム文化』 p.29) しかし、ヒッティの『アラブの歴史』を読むと、イスラム教はベドウィンの慣習を色濃く受け継いだ宗教なのだと思わざるをえない。 まず、井筒氏のように定住民(商人)と遊牧民(ベドウィン)に二分化することには違和感がある。両者は定期的に交流を持っていたし、旧約聖書でも両者が生業を相互に変えることは日常的に起きていた。また、倭寇がそうであったように、ベドウィンは商人と海賊の両面の姿をもっていた。 かつてベドウィーンだった一部の都市民は、古い遊牧民の痕跡をとどめているし、そのほか都市民化の途上にあるベドウィーンがいる。定住民の血液は、遊牧民の血統で絶えず更新されている。(上巻 p.79)
イスラムが神への「絶対帰依」を求めるのは、砂漠の過酷な自然の前でひたすら耐える忍耐、受動性を備えたベドウィンの特質を下地としているのではないか。また、イスラムが聖職者階級を否定し、神の前の平等を唱えたことも遊牧民であるベドウィンの個人主義・平等主義的な思考が背景にあるように思える。 イスラムの象徴でもある月は、砂漠の遊牧民であるベドウィンにとって天体信仰の対象だった。夜露が牧草を育むからだ。オアシスや石は無明時代(ジャーヒリーヤ)のベドウィンのみならず、セム民族の原始宗教の信仰の対象であり、それがザムザムの泉やカーバの黒石に繋がっている。マッカへの巡礼もまた、ジャーヒリーヤ時代のベドウィンが神聖な四ヶ月の間に行っていたものだ。 ムハンマドが否定したものは、井筒氏が述べる通りベドウィンの部族重視の価値観だったのであって、それ以外のベドウィンの慣習や特質は否定してないように思える。アッラー以外の、部族由来の神を排除するために、多神教は否定された。まぁ、ユダヤ教やキリスト教の影響は当然あるけれども。 唯一絶対神の前での平等を訴えることで、部族同士の抗争に明け暮れたジャーヒリーヤ時代に終止符を打つ。それこそがムハンマドが狙ったことなんじゃないかと思える。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ イスラムが未だに西欧/キリスト教世界に劣後している理由は政教分離、聖俗分離ができないからだろう。宗教が政治の上に来ては、他者への寛容性に欠け、謙虚に他者に学び、自己を変革していくことは難しい。 ヒッティが述べるように、イスラム世界は『コーラン』と『ハディース』の解釈学であるスコラ主義から脱することができていないように思う。字句に拘泥し、あるいは自己の内面的精神性を重視する傾向が強すぎるのではないだろうか。 アル=アシュアリとアル=ガッザーリの建設したスコラ主義の殻は、今日までイスラムを支えてきている。しかしキリスト教は、とくにプロテスタントの反抗の時代に煩瑣主義を破壊することに成功した。その時以来西洋と東洋とは袂を分かって、前者は進歩的となったのに、後者は停滞的にとどまっている。(『アラブの歴史』下巻 p.169) アラブの春以降のエジプトの状況や、イスラムへの回帰を強めるトルコの状況は、イスラム世界で聖俗を分離することの難しさを痛感させる。 ムハンマドが今の時代に生きていたら、聖俗一致を求めるだろうか。彼がウンマを率いて神が善しとする規範を示したのは、抗争に明け暮れて現世的な享楽を求めたジャーヒリーヤ時代のひとびとに幸福を与えたいがためだったからじゃないだろうか。 #
by guranobi
| 2013-12-22 00:33
| イスラム
2013年 12月 21日
【西欧/キリスト教世界の発展の要因】 (再掲) 英国の一人あたりPPPの推移を見ると、ルネサンス初期と重なる百年戦争(1337~1453年)期に飛躍的に高まった後、薔薇戦争(1455~85年)から清教徒革命(1641~1649年)に至る200年間では停滞し、1650年頃から持続的な発展を始めている。これは英蘭戦争による海上覇権の獲得が英国発展の礎となったことを示唆している。 ちなみにオランダは代表的な宗教戦争である80年戦争の期間も一人あたりPPPは増加を続け、1650年時点では英国の3倍弱にまで達していたが、英蘭戦争の後200年以上に渡って一人あたりPPPは横ばいを続けた。 英国を含めた西欧/キリスト教世界がルネサンスを経て、持続的な発展を続けた要因は海上覇権のみではなく、多岐にわたるだろう。おそらくは、 ①イスラム世界から継承した科学技術の発展 → ルネサンス ②政教分離、ないしは理性の宗教からの分立 ③インド航路と新大陸発見による新市場の獲得 ④三角貿易による資本の蓄積 ・・・といった要因が考えられる。 ①ルネサンスの基礎 フィリップ・K・ヒッティは、著書『アラブの歴史』において次のように述べている。 (アル=マフディとアル=ラシードの)時期が、イスラムの歴史上もっとも重要な知的覚醒を遂げ、思想と文化の全歴史中のもっとも重要な部分のひとつをなした (上巻 p.583) アッバース朝の初期、第3代カリフのマフディ(在位 775 ~785年)、第5代 アッラシード(786 ~ 809)、そして第7代 マアムーン(813 ~833)の治世に、イスラム世界は主にアラム文明を通じてヘレニズム文明を受容し、ペルシャ、インドの文明も吸収しつつ急速な発展を遂げた。哲学、医学、数学、天文学などの広範な古代ギリシャの学問がアラビア語に翻訳された。また、製紙法を含めた中国文明の恩恵も受けた。 このイスラム世界が継承した科学技術は、主に3つのルートで西欧世界に伝えられた。イスラム世界の支配を受けたスペイン、シチリアと、十字軍である。ことに12世紀ルネサンスと呼ばれる時期にスペイン、シチリアにおいて「大翻訳時代」が生じ、アラビア語の文献がラテン語を中心とする西欧諸語に翻訳され、14世紀から始まるルネサンスに繋がっていった。 ②政教分離、ないしは理性の宗教からの分立 もちろん、現代的な意味での政教分離は17世紀ころの近代では確立していない。しかし、教会からの国家の自立、そして個人の信仰の自由に続く動きはすでに始まっている。1650年はデカルトが亡くなった年であり、このグラフを見る上で象徴的じゃないかなーと思う。 ルターの95カ条の論題によって宗教改革が始まる以前の1472年、アンボワーズの協約によってガリカニスムが進展し、王権が叙任権を有するようになった。英国では1534年の国王至上法がその契機となる。また、ドイツではアウグスブルクの和議(1555年)によって、領邦国家が自らの宗派を決する自由を得た。さらに、ナントの勅令(1598年)によって個人の信仰の自由が認められた。 これらは国家そして個人の宗教選択の自由、宗教からの自立の歴史であるとともに政教分離を確立していく歴史でも有る。そして、スコラ学から脱したデカルトやロックの近代哲学によって、「宗教による真理の探求」から「理性による真理の探求」へと変化していき、その後の産業革命による一層の発展へと繋がる。 ③新市場と④三角貿易 インド航路の発見(1498年)およびカブラルのブラジル到達(1500年)を契機として、砂糖・綿花・タバコ・コーヒーなどの世界商品のプランテーション生産、そしてその生産手段としての奴隷貿易を合わせた三角貿易がブラジルでは16世紀、カリブ海および北米では17世紀に始まった。(北川稔氏の『砂糖の世界史』など) その後の七年戦争(1756 ~ 1763年)による北米・インド植民地の確立は、産業革命後の英国にとっての市場となった。 ・・・とね、高校生並みの歴史の振り返りなんですけど、上のグラフに産業革命期を重ねた時になって初めて、産業革命って経済成長のきっかけじゃなかったんだなーって知ったんですよw で、英国ないしは西欧/キリスト教世界が持続的な経済成長を始めた理由が気になったという訳でして。 これを歴史上の必然というべきか、たまたまの偶然というべきかはわかんない。英国以外の西欧諸国のみならず、日本を含めた東アジアが英国が辿った道をなぞってこれたのに、なぜイスラム諸国はそれができないんだろう? イスラムは世界のどこよりも地理的にも歴史的にも西欧に近いはずなのに。 #
by guranobi
| 2013-12-21 22:26
| イスラム
2013年 12月 21日
ちょっと前の春山さんの一連のイスラムに関する著作に刺激されて、僕も幾つか本を読んでみたので自分なりの感想を。 豊健活生活:春山昇華 (目次)宗教の呪縛から抜け出せないムスリムたちの国々 イスラム教にはもともと興味があって、現代中東や石油・ガス市場に与える影響の大きさだけでなく、歴史上でのイスラムの役割とか、経済成長ないしは停滞を生み出す要因を知りたかったからでもある。いろいろと読んで理解は深まったけれども、結論は出なかった。あたりまえだけどw それでも、自分なりの拙い理解をまとめとこうと思いまして。読んだ本は最後に一覧で。 【イスラムの没落はいつから始まったのか?】 Maddison Project という、長期時系列の一人あたり実質GDP(購買力平価 = PPPベース)を計測しているところがあって、そのデータを参考にさせてもらった。下図は西暦1年から1935年までの推移。縦軸は一人あたり実質GDP(PPP, 1990年米ドル)、対数目盛。 古代~中世のデータが揃っている国はあまりなくて、中東からイラク、トルコ(ビザンツ)、エジプトを、西欧から英国、スペインを選んでみた。 イスラム世界の(相対的な)没落がはっきりしたのは、第二次ウィーン包囲から続く大トルコ戦争を終結させたカルロヴィッツ条約(1699年)だろう。これによってイスラムの盟主オスマン朝は、キリスト教世界に対して初めて決定的な敗北を喫し、広大な領土を失った。この後、ナポレオンのエジプト上陸(1798年)やゴレスターン条約(1813年)におけるロシアのカージャール朝ペルシャへの侵略などが続くが、それは、西欧/キリスト教世界に対する優位性を信じていたイスラム世界が、実は劣後しているのだという認識を深めていく過程でもあった。現在にまで続く、イスラム教徒にとっての宗教・信仰を含めた価値観が問われる内面的な問題の始まりだった。 では、イスラム世界の相対的な劣後や没落はいつから始まったのかというと、当然、カルロヴィッツ条約以前に原因があるはずだ。Maddison Project のデータによれば、7世紀のイスラム誕生から11世紀頃まではイスラム世界の一人あたりPPPは西欧を上回っているが、少なくともルネサンスが始まる14世紀にはすでに逆転していたようだ。 もちろん、一人あたりPPPが相対的な国力を表しているとは限らない。現代の中国のように、一人あたりPPPが低くとも、人口の多さや中央集権的な政治体制、軍事力への傾斜などが国力を表すこともあるだろう。しかし一人あたりPPPの推移を見ると、14世紀以降の西欧/キリスト教世界が着実に成長・発展していったのに対して、イスラム世界は没落ないしは停滞を続けていた、という変化の方向性は伺える。 西暦1000年から2010年までの、英国と比較した一人あたりPPPを見ると、エジプトやトルコの相対的な所得水準は現在においても英国の18%(エジプト)、35%(トルコ)でしかない。これは、ナポレオンのエジプト上陸のときと同じ水準であり、カルロヴィッツ条約締結時を下回っている。長期的に見れば未だにイスラム世界は劣後したまま、と言えるだろう。 #
by guranobi
| 2013-12-21 20:59
| イスラム
2013年 08月 25日
補足というか、備忘録みないなものを追加で。 90年以降の米国債利回りとイールドカーブを眺めると、11年半ばから13年5月にかけて、2ー5年スプレッドが緩和局面としては異例なほどに潰れている(フラットニングしている)のがわかる(下段の図、黄色の囲み)。 通常、緩和局面におけるイールドカーブは、短期金利が政策金利に連動して低水準に留まるのに対して、長期金利は緩和効果による景気やインフレへの押し上げ効果を見越して短期金利ほどには低下しない。その結果、緩和局面ではイールドカーブはスティープニングするのが通常だ。92~93年、02~03年のように。 しかし、11年半ばから13年5月まではカーブが潰れている。このときに何があったかというと、QE2でもQE3でもなく、”時間軸の明確化”だ。 2011.8.9 FOMC statement FEDは異例に低水準なFFレートを維持する期間について、それまでの ”for an extended period(長期間)”という曖昧な表現から、”at least through mid-2013(少なくとも13年半ばまで)”と低金利を維持する期間を明示した。 これによって、2年債利回りが低下するだけでなく、5年債利回りは2年債以上に低下し、2-5年スプレッドは潰れていった。5ー10年スプレッドはさほど潰れていないものの、多少はフラットニングしている。”時間軸の明確化”はカーブ全体を押し下げる効果があったのだと思う。統計的な検証はしてないけどw 時間軸はその後、12年1月のFOMCで”14年終盤まで”、さらに12年9月のFOMCでは”15年半ばまで”と延長されていったが、この間は金利水準・カーブともに低下を続けた。 おそらく重要な転機は12年12月のFOMCで、それまで”15年半ばまでは”低水準のFFレートが維持されるだろう、としてきたものを、”失業率が6.5%に低下するまでは”と変えたことだ。期間を明示して低金利をFEDが保証してきたが、低金利が維持される目安を失業率に変更した。経済状況に応じて柔軟に緩和期間が変化するようになったのだ。たぶん、これを境として金利上昇の下地はできていたのだが、FEDが経済の先行きに慎重な見通しを維持していたこともあり、今年5月までは金利はさほど上昇しなかった。 今年5月のバーナンキの議会証言(のQ&A)が金利上昇のきっかけとはなったけれど、すでに昨年末のFOMCで政策のルールが変わっていたんだと思う。今の金利上昇は、11年9月~12年12月までの「時間軸の明確化」効果の修正過程にある、というのが僕の判断。 すでに2-5年、5-10年のスプレッドは金融緩和局面としては妥当な水準にまで上昇している(多少の上昇余地はあるだろうけど)。今後は、2年債が14年後半から始まるだろうFF引き上げのパスを織り込んで上昇して、カーブ全体を押し上げる形での金利上昇が起きる。 実際にFF引き上げが始まるだろう(あるいは引き上げをリアルに意識し始める)14年半ばころからはカーブ全体が潰れながら上昇する、ベア・フラットニングの局面に移るだろう。 ・・・と考えると、10年債利回りは目先は3%を上回る程度で小休止したのちに、14年半ばまでに4%を上回る水準にまで再上昇。その後は4.0~4.5%程度での横ばい、というのが大雑把なイメージに。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ここまでFEDの資産買入れ額の縮小などの量的側面にほとんど触れなかったのは、もうあまり意味が無いと考えているから。すでに昨年12月を境にFEDの金融政策は、ほぼ無条件の緩和継続から、失業率すなわち経済状況に応じた可変的な政策にかわっているし、なによりも市場金利はそうした変化を織り込みながら上昇していっている。 もはや、FF引き上げの時期やその後のパスを示さなければ米債金利の動向を論じることはできないのに、未だに資産買い入れ額の減少が9月だとか12月だとか言うだけのレポートはオカシイ。 もちろん、5月以降の金利上昇の影響が実体経済に及ぶだろうし、その影響の程度を市場もFEDも確認していく。しかし、その影響は利上げのシナリオを3~6ヶ月程度前後させるマイナーな修正だと考えるべきだろう。すでにFEDは利上げモードに入っており、おおまかな利上げのシナリオを念頭においた上でマイナーな変化を見るようにしないと、大局を見誤ることになりかねない。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ このFEDでの経験は日銀にとっても重要な示唆を与えていると思う。 15年4月以降のQQEについてそろそろ緩和継続の意思表明をしといたほうが良いんじゃないだろうか。15年4月までの2%インフレを実現させるためにも、15年4月以降も国債買い入れを一定期間継続するよーと宣言して、時間軸の明確化を保っておいたほうが、長期金利の安定性にも貢献するんじゃないかなーと思うのです。 #
by guranobi
| 2013-08-25 08:17
| 米国
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